山重壮一氏
読書の価値を認めない人たち

山重 壮一 氏(やましげ そういち)
1962年 東京生まれ
1985年 図書館情報大学卒、目黒区立図書館に勤務
2008年 高知県立図書館に勤務
2023年 香美市立図書館に勤務
元図書館問題研究会事務局長
図書館というものは、読書というものが前提にないと成立しない。だから、読書に価値を認められない人には、図書館の価値を認めることができない。押しつけがましい読書推進をやったところで、この人たちの頑固さは変えられない。
そもそも、読書以前に、文字がなく、本というものがない、ジャングルの奥深くに住んでいるような人たちにとっては、読書の価値はわからないかもしれない。しかし、その人たちの前に文字と本が現れたら、その価値を認める人も出てくるだろう。無文字社会の人々に物語や歴史や教訓や科学的知識や思想がないわけではないからだ。それらは、覚えやすいように歌にして継承されていくだろう。
ところで、ソークラテースは、本に価値をそんなに認めなかった。本から引用ばかりしている人は、自分で思考しないからだ。プラトーンもそうだったが、やっぱり、師匠のソークラテースのことを本に書いた。そうでなければ、我々はソークラテースのことを知ることができない。
ソークラテース、プラトーン、アリストテレースで、ほぼ、学問のネタは実は出し尽くされている。しかし、古代ギリシアには原子論のデーモクリトスというすごい人がいる。この人は実は、たくさんの著作があるのだが、ろくに残っていない。現代のレベルから見てもかなりすごい著作があるそうだ。この件に関しては、カルロ・ロヴェッリ著『すごい物理学講義』を読んでほしい。もし、この人の失われた著作がどこからか発見されたら、すごいことになると思う。
自分で思考しないから、本にばかり頼っていてはだめだという発想は、デカルトにもある。世間という大きな書物を読みたいということで、デカルトは軍隊にも入った。ただ、デカルトは、「私は考える。ということは、(考える)私は(確実に)ある。」(Je pens, donc, Je suis.)ということを書いたら、それはアウグスティヌスが言っているのではないかと人に言われた。デカルトはそれで、図書館に行って、アウグスティヌスの著作を確かめている。そして、それとは、趣きが違うと述べている。
書を捨てて、世間という大きな書物に、というわけではなかったのだ。そもそも、デカルトがスコラ学を勉強していなかったら、スコラ学の批判もできなかっただろう。要は書物だけではだめということだ。書物の引用に引用を重ね、妄想の体系を作っても仕方がないということだ。極端な話、人間を守護している天使は何柱あるのかなんていう論議もあったのだから。
だから、ここらへんの人たちは、実は、読書否定派ではない。
もう一人はムハンマドのような存在だ。ムハンマドは文字が読めなかったので、啓示により、アッラーからのメッセージを受け取った。クルアーンも彼の言行録的なものだ。では、このような人が、本や読書を大切にしなかったかというとそういうことはない。「コーラン(クルアーン)か剣か」というのは正しくない表現である。イスラームは、ユダヤ教にしろキリスト教にしろ「啓典の民」に敬意を払っている。書物は大切に考えているのだ。
古代アレクサンドリアの図書館にイスラーム教徒が火を放って、本は灰燼に帰したなんていうのは、もちろん嘘である。事実は、「コーランか人頭税か」なのだ。税金を払わなくて済むというのは、それほど、人々にとって大きな魅力なのである。中東問題を宗教戦争と言うのは間違いだ。中東問題は、イスラエルの民族主義者が立法により、事実上、住んでいたパレスチナ人(キリスト教徒も含まれる)を追い出してしまったから起きている。いくら、紀元前10世紀ごろはユダヤ人の土地だったにしても、無理な話なのである。
従って、宗教関係の人が読書を軽んじるということもない。仏教も「不立文字」とは言うものの、夥しい経典がある。いずれにしろ、「読書だけ」ではだめということなのだ。
ただ、与えられた宿題だけをやるような勉強や、いわゆるルーチン・ワークであれば、特段の読書は必要ないだろう。そういう人にとっての読書は「趣味」であり、その趣味がない人は特に、読まなくてもよいということになる。
しかし、出された宿題だけをやっている「勉強」やルーチン・ワークしかやっていない地域が発展するはずは絶対にないのである。これは断言できる。
「地方創生」とか言って、イベントばかりやっているが、そんなことで発展するはずがない。お祭りで地方が発展するのなら、楽なもんだ。本当に発展させたいなら、本当の「学び」と本当の「活動」をしなければならない。そのために読書が必須なのは、そういうことをしてきた人なら、すぐわかることだろう。
地方創生したかったら、図書館くらい充実させよう。本当にそう思う。
読書に価値を認めない人というのは、いわゆる「無知の知」がない人だ。自分はもう知っていると思っているので、知りたいと思わない。そういう状況だったら、現状維持すらままならない。ずっとこの状態を維持したいというのも、一つのポリシーだろう。しかし、同じ状態を維持するのだってエネルギーが必要なのだ。
「自分は何も知らないのだな。」と気づく人が増えていけば、図書館はどこも大変、繁盛するだろう。